2000年

新聞記事

「旅をとびきり楽しく」
2000年1月16日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
「この年になると一人旅はわびしくてだめ。でもツアーは他の人との関係がめんどうだから、いつも私一人部屋を頼むのよ」旅慣れた七十代のNさんは私の企画するツアーに参加するときはいつも一人部屋を取ります。
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「背負い子に乗って旅できる?」
2000年1月30日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
車いすを離れ、自ら考案した背負い子(しょいこ)を使って、オーストラリアの大自然を楽しみたい。そんな旅はできないだろうか。現地の屈強な男を探してほしい。僕の体重は五十キロ少しです・・・。
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「ジパング!ジパング!雪見の旅 1」
2000年2月13日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
二月一日、大難産の末、日本周遊、バリアフリーをすすめるツアー第一弾「北海道雪見の旅」は始まった。従来の観光コースにしばられず、様々な障害者の参加を募り、行きたいところに行き…。
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「ジパング!ジパング!雪見の旅 2」
2000年2月27日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
北海道「雪見の旅」では、何度か嬉しくて涙が出てしまった。そのひとつ、函館の夜、旅館はなびしで、畳敷きの和宴会場でのこと。ツアー参加者たちが浴衣をはおり、三々五々集まってきた。
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「ジパング!ジパング!雪見の旅 3」
2000年3月12日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
「足を切って幸せ! 切らなければ未来はなかったの」北海道の雪見ツアーに参加したK子さん(五八才)と親しく話ができたのは、知床のホテルの大浴場の脱衣室でだった。
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「ジパング!ジパング!雪見の旅 4」
2000年3月26日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
なんというネーミングか。氷下魚(こまい)とは。厳寒の湖の真ん中に厚く張った氷をチェンソウで四角く切り、その下にいる魚をとる。それが氷下魚漁だ。
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「タイでメーチー修行」
2000年4月9日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
「タイに行って、女の坊さんになりたい」昨年の夏の終わり、大学生の娘は言い残して、タイへ五ヶ月間のフィールドワークに出かけた。彼女が通う大学の授業の一環で二三人が共に旅立ち…。
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「旅情報の玉手箱 インターネット 1」
2000年4月23日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
最近ノートパソコンの「二代目」を買った。少し前から携帯電話とつなぐこともはじめたので、日本のどこにいてもインターネットにアクセスでき、仕事がこなせることになった。
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「地球旅行革命 インターネット 2」
2000年5月7日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
一週間後にベルギーへひとり旅することになった。海外へひとり旅するために、インターネットで情報をとる場合、覚悟を決めて、外国のサイトにアクセスする方が、より価値ある…。
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「ベルギーの設備が素晴しいホテル」
2000年5月21日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
ブリュッセルで一番バリアフリーが整っているというホテルに泊まった。市中心にあるラディソン・サス・ホテル(RADISSON SAS HOTEL)である。私は旅にはいつもメジャーを持参するので、例によってホテルの内部を測りまくった・・・。
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「ベルギーの魅力 戦場と猫祭り」
2000年6月4日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
三年に一度、五月の第二日曜日に開かれる猫祭りで知られるベルギーのイーペル。この小さな町が第一次世界大戦の最前線になっていたなんて、日本人のどれくらいが知っているでしょうか。私も、猫祭りを見に行って、はじめて知ることになりました。
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「ベルギー新発見、おすすめひとり旅デザイン」
2000年6月18日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
ヨーロッパをいそがしく 旅する日本人にとって、ベルギーは通過することはあっても、なかなか滞在しにくい国だと思う。私も、今まで80回近く地球を旅してきたが、ベルギーの滞在泊数は…。
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「盲導犬連れの海外ツアー最前線」
2000年7月30日 中日新聞掲載
(文頭紹介)
イタリアのカプリ島ツアーから帰国した。参加者は37名と盲導犬6頭。しかし、今回ほど特定の盲導犬と飼い主に悩まされたことはなかった。・・・。


「盲導犬も一緒に阿波踊りを踊った!」
2000年8月13日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
「不可能」が「可能」になる瞬間とは嬉しいものである。この記事が掲載される8月13日の夕方、徳島市の阿波踊り会場、市役所前広場では、盲導犬を連れた3人が大観衆を前に、「ねたきりになら連」にまじって阿波踊りを楽しく踊りまくっていることだろう・・・。


「21世紀に求められる旅行福祉の視点」
2000年12月10日(日)中日新聞掲載
(文頭紹介)
旅を仕事にする私は、この世紀末6年間に、23本の様々な障害を持つ人の参加しやすいツアーをあちこちの旅行会社と共に実施して、490名の参加者を得た・・・。




2000年1月16日(日)中日新聞掲載
「旅をとびきり楽しく」

「この年になると一人旅はわびしくてだめ。でもツアーは他の人との関係がめんどうだから、いつも私一人部屋を頼むのよ」

旅慣れた七十代のNさんは私の企画するツアーに参加するときはいつも一人部屋を取ります。昼間はやさしい視線で障害のある人と共に観光してまわりますが、車いすを押すなどのサポートはせず、限られた日程の中で自分の旅を楽しんでいます。

二人部屋が基本のツアーを実施するときは、話題が合いそうな同じ年齢の人同士を同じ部屋にしますが、「同室の人のいびきで眠れなかった!と翌朝、目をはらしている人をたまにみかけます。こういうときに、耳栓が一組あったらハッピーに乗り切れるのではないかなー。耳栓は自分が同室者のいびきで眠れないときに使ってもいいし、いびきをかく心配のある人が眠る前に耳栓を同室の人に渡しておくのもいいでしょう。

また、一般的にきゃしゃな体格の人は寒がりで、太めの人は暑がりですから、冷房が寒すぎるとか、冷房が利かないとか、部屋の冷暖房で口論に発展することもあります。

ツアーで同室になったら、眠るベツドをどちらにするかにはじまり、風呂に入る順番など、そのつど公平に決めたり。鍵が一つしかない場合、外出するときはフロントに預け、相手に不便をかけないという配慮も必要です。

同室者とはさらりとした関係を大切にして、お互いに甘えないことが大切かも知れません。

外国旅行の大きな楽しみは食事ですが、レストランに一人で入ったら端っこの席に案内されたとか、よく聞きます。しかし、グループの場合でも、悪い席をあてがわれることがあります。

昨年の十月、ロンドンでのこと。私の企画したツアー最終日の夜、さよならパーティのために、宿泊ホテルのレストランを予約したら、出入り口近く、寒くて落ち着かない場所に、テーブルを斜めにいくつかつなげて並べて、あきらかにナイフやフォークがぎゅうぎゅう詰めにセッティングされていました。日本人は文句を言わない、となめている模様。早速マネージャーに抗議すると、言い訳をしながらしぶしぶ奥の席にテーブルをセットし直して、全員でゆっくりテーブルを囲むことができました。

また、英国・コッツウォルズ地方を旅したときも、インド料理店にグループで入ったら、店内はガラガラなのに、導かれるままに進むと、店の一番奥の穴ぐらのような所に案内されてしまいました。もちろん、メインストリートに面した景色の良いテーブルに移動したのは言うまでもありません。

ツアーのにぎやかさと一人旅の気楽さを大切にしながら外国人のしたたかさにもまれつつ、楽しく旅するには、楽観主義になる、好奇心旺盛になんでも試してみる。お金を出すべきところには出し、ケチるところはケチる、一期一会の精神などが、その他にあげられます。

今年も元気に楽しい旅を!


2000年1月30日(日)中日新聞掲載
「背負い子に乗って旅できる?」

車いすを離れ、自ら考案した背負い子(しょいこ)を使って、オーストラリアの大自然を楽しみたい。そんな旅はできないだろうか。現地の屈強な男を探してほしい。僕の体重は五十キロ少しです。

田中正雄さん(仮名=三七)から旅のデザインの依頼が入った。彼は十六年前に交通事故がもとで頸椎損傷となり、歩行できない。入浴は全面介助が必要だし、排便も排尿も苦労している。彼の旅立ちの手伝いをするのは、これで二度目だ。先回は身内の二人と共にスイスを車いすで山歩きしたいと、旅を実現した。今回は北オーストラリアのアウトバックを他人にサポートされて一週間ぐらい旅したいという。介助者二名分の旅行費用も負担するので、旅先で車いすを押したり、トイレや風呂などで介助する人を探して欲しいとのことだった。さっそく自前のトラベルボランティア・グループの会員八十名あまりに、誰かオーストラリアへ行かないか、と声をかけると、病院の集中治療室勤務の看護婦Hさんと、看護大学生のAさんが名乗りを上げてきた。Hさんはモンゴルツアーでトラベルボランテイア経験があるし、Aさんも別のツアーでトラベルボランティア経験があり、人柄は明るい。

さて、田中さんが、アウトドアメーカーに試作してもらった背負い子は四作目で、重さは二キロほどだ。それに彼の体重がプラスされるから五十二キロ。屈強な担ぎ手は見つかるだろうか。背負い子はL字型のフレームで、両足が下から出るようになっていて、あとはベルトで身体を固定できるという。

インターネットで一泊二日の現地ツアー、カカドウ・ナショナルパークツアーの日程や料金などの情報を取り、さらに英文で、問い合わせた。
「車いすを使っている男性が貴ツアーに参加希望だが、彼を背中に背負ってくれる力持ち男性を一人、ツアー中雇いたいのだけど可能か?」 が、前代未聞の申し出に困ったのか、返事はこなかった。

こうなったら現地入りして自ら探すしかない。ダーウイン市内から出発する一泊二日のカカドウ国立公園ツアーに参加した人は二十名ほどだ。東洋人は内田さんたちだけ。年輩の人が多かった。運転手兼ガイドのグレッグに自分を担いでくれないか、と内田さんは頼んでみたが、断られた。「気持ちはわかるが、自分は運転するし、ガイドもする、それに旅を手配しなければならないから」と。

結局カカドゥでは日本から同行したAさんとHさんが田中さんを担いでみたが、小柄な彼女たちでは無理だった。

次の訪問地ブルームでは、やっと見つかった、身長一九四センチのオーストラリア人リチャードに担いでもらったが、背負い子のフレームが尾てい骨に当たってしまい、ちょっと担いでもらっただけに終わった。
その代わり、リチャードは、海辺を行くラクダの旅に同乗してくれた。これが最高に楽しい経験だったという。


2000年2月13日(日)中日新聞掲載
「ジパング!ジパング!雪見の旅 1」

二月一日、大難産の末、日本周遊、バリアフリーをすすめるツアー第一弾「北海道雪見の旅」は始まった。

従来の観光コースにしばられず、様々な障害者の参加を募り、行きたいところに行き、やりたいことを実現する。参加者全員の靴には滑り止めのゴムバンドをつけてもらい、携帯便器とスロープ、それに雪道用の車いすも持参する。同行看護婦をつけ、優秀な社員添乗員をつけること。バスを動かすコースにこだわり、食事の献立や行く店も選んで、障害者を受け入れたことがない和風旅館の和室に盲導犬や電動車いすを入れようというのだ。厳寒の湖でスノーモービルに乗って、湖の真ん中まで行き氷下魚(こまい)漁を見学したり、五時起きで厳寒の納沙布岬まで日の出を見に行くためにバスを動かしたり屈斜路湖で露天風呂にも挑戦する、という企画だった。

参加者は、交通事故による脳挫傷で、左手しか動かすことができない重度障害の男性A君と介助のため付き添う両親や、幼いときの小児麻痺で片足を切断し、義足を付けているA子さんを含めた一一名と盲導犬二頭、同行看護婦と添乗員と私の一四名の旅である。南は熊本、北は北海道の旭川から参加した。しかし、この不景気の中、ツアーはつぶれかかった。募集締切りの日、ツアーを主催する旅行会社の本社と、主催する支店の担当者を交えて、あくまでも利益を追求する人々と、このツアーは普通のツアーと異なり、社会的意義が大きいから、実施すべきであるという考えの人々が侃々諤々議論したと聞く。

そして実施が決まった。私もミレニアムにかけて、必死だった。年始に送ろうと五百枚印刷した年賀状を三百枚も出しそこねるほど、へとへとになった。人数が固まらないツアー締め切り日の前日もあきらめず、TBSの早朝番組キャスターの生島ヒロシさんの尽力で電話で番組に早朝出演して、このツアーへの参加を呼びかけた。その結果、薄利多売の激安旅行商品が乱舞する中で、一一日間という国内初の長旅で海外旅行並の価格をつけた手作りのツアーが出発日を迎えたのだ。

かつて、私は企業は冷徹で物体のようなものでしかないと思っていた。が、最近、会社を動かしているのは人であるとつくづく感じている。昨年の夏に、この主催旅行会社の代理店総会に呼ばれ講演した。その夜の懇親会で、国内担当重役Cさんと隣りあわせになり、「海外ツアーで実績を積んだので、次は様々な障害を持つ人が支えあさって国内を周遊するバリアフリーツアーを商品化したい」と、私の熱い想いを語った。左隣りに座ったCさんは丁寧に話を聞いてくれ、右隣の部長職は、四百人近くの人が集っている大きな会場で、私を各テーブルに案内してくれ、全国営業本部の要職の人々と名刺交換する機会を作ってくれた。

だから旅行会社も全社的に、このツアーを支援する体制は固まりつつあったと言える。出発の羽田空港で、見送りの人々の中に役員のCさんの姿があったことがそれを物語っている。もう誰もバリアフリーの潮流は押さえられない。


2000年2月27日(日)中日新聞掲載
「ジパング!ジパング!雪見の旅 2」

北海道「雪見の旅」では、何度か嬉しくて涙が出てしまった。そのひとつ、函館の夜、旅館はなびしで、畳敷きの和宴会場でのこと。ツアー参加者たちが浴衣をはおり、三々五々集まってきた。

まず、出口に近いところでいい、と遠慮する両親の意をさえぎって、交通事故で脳挫傷となり全介助の必要なA君の車いすを一番奥、金屏風の右真ん前ににすすめた。畳にあげる前に、彼の車いすには車輪カバーをつけた。A君の車いすの前には、黒いお膳が二段重ねられ、その上に料理がにぎにぎしく並べられた。この、二段重ねの黒いお膳は、旅館側の好アイデアだった。

もうひとりの車いすの男性は少し歩けて畳に座れるので、反対側の金屏風の前の座椅子に進んでもらった。次に盲導犬を連れて参加した二名の視覚に障害のある人を、宴会場の中央に誘導することにした。盲導犬は毛が散らないために、カラフルな服を着せハーネスを付けている。まず畳にあがる前に四つ足をふき、飼い主が座る座椅子の後ろに持参した専用の敷物を敷き、伏せの姿勢をとらせた。まずツアー参加者全員でビールで乾杯となった。

A君も車いすに座ったまま管のついた排泄袋を膝の上に置き、母親の差し出す吸い飲みでビールを楽しんだ。

健常者の旅にとっては、ごくあたりまえのことなのに、日本の旅文化において、長いこと身体に重度障害のある人々は、このシーンを手に入れられなかった言える。我慢を強いられてきたのだ。前例ができさえすれば、あとは反復することにより、道をつけられるだろう。

実はこの雪見ツアーを手配していくうえで旅行会社の担当のS氏が、夕食をとるときは、車いすの人もいることだし、テーブルと椅子席の会場の方がいいのではないか、と何度も心配して確認してきた。その度に、せっかく旅館に泊まるのだから、和室の宴会場にして欲しい。車いすの人はどうするのか。みなと少し高さが違っても、車いすの人の前にはテーブルを置けばいい、そして、和旅館に泊まるのだから、障害のある人も、本人が希望する場合は和室を、ととこだわり通した。その結果、和洋室が準備されることになった。旅行会社も旅館側もベストを尽くしたと言える。

なぜ海外ツアーばかり企画して、国内ツアーを企画しないのですか?とそれまでの私はよく質問を受けた。その理由は。国内ツアーは難しいからだ。日本国内には福祉の世界に身を置いて、私財をなげうって献身的にささえた、古い世代の専門家たちがたくさんおり、その人々に育てられた福祉のプロたちが今活躍している。その人々は障害者、高齢者を思うあまり、安全第一に走るきらいがある。冒険をさせないことだ。彼らの目には、今回のツアーは無謀に映るかもしれない。彼らの「常識」が障害者や高齢者に我慢を強いてきたと言えないだろうか。そうした「常識」をくつがえすためには、まずまっさらな海外へ障害のある人々を誘い、ツアーの様々な場面でひとつひとつ経験を積み、考え、オリジナルな理論作りが必要だったといえる。

金屏風を手に入れたら、さあ、次は温泉に行こう!


2000年3月12日(日)中日新聞掲載
「ジパング!ジパング!雪見の旅 3」

「足を切って幸せ! 切らなければ未来はなかったの」北海道の雪見ツアーに参加したK子さん(五八才)と親しく話ができたのは、知床のホテルの大浴場の脱衣室でだった。温泉から出て浴衣を着て涼んでいると、左足にビニールを巻き付けて、K子さんが上気して出てきたのだ。

「あなたの義足、見せてくれない?」K子さんにそう頼んだ。義足はどうなっているのか、以前から興味があったからだ。「いいよ、見せてあげる。」k子さんは快く応じてくれた。

まずひざ小僧下の切断面にかぶせるようにつけられていた肌色の義足をはずす。義足のふくらはぎ部分の材質は木に樹脂を流したものだという。くるぶしから下は革製だ。義足をはずし、、四枚重ねて履いた白い靴下を脱ぐと、きゃしゃなひざ小僧が現れた。膝のまわりには五つぐらい一センチ大の汗もができていた。

「歩くとむれて、皮がむけるし、汗もができるの。夏なんか、義足の中に水がたまるんだから」と笑った。

彼女の障害は小児麻痺で、左足のかかとが麻痺していたため、ほとんど使えない状態だった、という。

十五才のときに、全寮制の更正指導所に入って紳士服の縫製を習い、自立をめざした。いろいろな障害の人が学んでいた。義足でさっそうと歩いている人を見つけ、あこがれた。あの人のように歩きたい!と。

その後、東京都内の洋服メーカーに就職。十六才から二十才まで働き、技術を身につけた。郷里に戻り、独立。二八才の秋、左足膝下十センチのところで切断し、念願の義足を付けた。

「麻酔から覚めたらフック船長のような仮義足がついていてね。嬉しくて病院中歩きまわったわ」

しかし、義足を付けてからも苦労が減ったわけではない。靴を脱がないですむことをいつも考えてきたし、階段を極力避けてきた。飛行機やモノレールに乗ったことがなかった。まして単独でツアーに参加するなど考えもしなかった。

その彼女が今回、厳寒の北海道一一日間の旅に参加したのは、頼りの右足も股関節炎で、五年ほどで歩けなくなると医師から告げられからだ。流氷やタンチョウの舞が見たかった。悔いを残したくなかった。思い切って温泉の大浴場にもチャレンジした。

義足のうえからスーパーのビニール袋を履いて、上をしばって風呂場へ。湯船と一番近い所に座った。お湯をかぶるときは義足をはずして水のかからないところに置いた。湯船に近づくときは義足を付けた。

入るときは義足をはずし、人目に付かないように立てておいた。そして満足げに風呂から上がってきたところで私に会った。

今回の旅で、K子さんは、引きこもりがちだった自分にサヨナラできそうだという。

「家の外はいいわ。やる気さえあればどこへでも行けそうね。」


2000年3月26日(日)中日新聞掲載
「ジパング!ジパング!雪見の旅 4」

なんというネーミングか。氷下魚(こまい)とは。厳寒の湖の真ん中に厚く張った氷をチェンソウで四角く切り、その下にいる魚をとる。それが氷下魚漁だ。

今回の北海道ツアーで私が一番こだわった企画だった。

この魚の存在を初めて知ったのは、英国で、だった。札幌在住の全盲のS氏が運河を行くナロウボートの旅に参加したときに、魚のくんせいをしきりにすすめてくれた。なんともいい味わいだった。名前をしっかり覚えた。北海道の雪見の旅を企画したとき、ぜひ現場に足を運びたいと心に決めた。

根室の近くに、風蓮湖という湖がある。オオハクチョウが飛来することで知られる。ここで私たちは氷下魚漁を見学することになった。その日リフト付きバスで風蓮湖へ向かった。根室市役所関係者の尽力で、数日前から、漁師が私たちのために網を仕掛けてくれたという。湖の真ん中まではスノーモービルが引く六人乗りのソリ二台に乗って行った。二列三人掛けの簡単な作りのソリだ。まず全身麻痺のHさんを皆で抱きかかえて座らせた。彼を挟んで両親が座る。スノーモービルがスピードをあげると背もたれがないため、Hさんがひっくり返る恐れがある。添乗員がバスの荷物入れから簡易スロープの板を探してきた。Hさんの背もたれのできあがり。前の座席には、盲導犬ユーザーのAさんと私。もうひとつのソリにも、健常者と障害者がバランスよく乗り込んだ。

いよいよ出発!進行!湖の真ん中に向かってスノーモービルが二台疾走する。漁師さんのスノーモービル、サポーターのスノーモービルも、バリバリバリと大きな音を立てて走り出した。雪原なのか、湖面なのか、雪に覆われているのでわかりにくい。風が頬に痛い。川を越えて、陸に上がり、湖に走り込んだ。一面真っ白だが、ところどころ湖面が透き通って見える。これが不安だった。氷が割れて落ちはしないか、と。しかし真っ白に見えるところは雪をかぶっているからで、どこも数十センチの氷が張っているので大丈夫だそうだ。

走り出して十分、湖の真ん中あたりに着いた。氷原に幅六?七十センチ、長さ数メートルほどの長方形の割れ目があった。そこが漁場だった。

漁師さんは仕掛けてあった網をあげ始めた。キラキラ、日の光に輝く魚が次々に姿を現した。コマイたちだ。百匹以上かかっていただろうか。私たちは歓声をあげた。でも漁師さんは、「この魚は食べてもうまくないんだ!」と氷下魚以外の魚を惜しげもなく、空に向かって放り投げた。もったいないと思う私。無数のかもめが、獲物をねらって飛来した。「触ってみるか?」車いすのHさんも、盲導犬連れの二人も恐る恐る氷下魚に触った。盲導犬のジョナサンとダリアンも、ハーネスをはずし離した。誰に遠慮はいらない。走れ!走れ!

ツアーを終えて、参加者達にアンケートを送った。今回のツアーで実施した三十六項目の中からベスト三を選んでもらった。第一位は、「風蓮湖の氷下魚(こまい)漁見学」と「釧路湿原のタンチョウの舞」、そして、次が「流氷オンザロック」だった。


2000年4月9日(日)中日新聞掲載
「タイでメーチー修行」

「タイに行って、女の坊さんになりたい」

昨年の夏の終わり、大学生の娘は言い残して、タイへ五ヶ月間のフィールドワークに出かけた。彼女が通う大学の授業の一環で二三人が共に旅立ち、チェンマイで暮らしそれぞれ別々のテーマを研究するのだという。

人口の九十パーセント以上が仏教を信仰しているタイだが、彼女によると、タイ社会には、オレンジ色の袈裟を着た男性僧の他に、白い服に身を包んだメーチー(女性出家者・尼さん)がいるという。

男性が出家することは成人になる通過儀礼で当然のこととされているが、女性の出家者は不幸から逃れるため、または妻や母としての義務を果たさないマイナスイメージとして受け取られているらしい。だから町中でもメーチーはあまり見かけず、男の僧は托鉢によって生活するが、メーチーは托鉢はせず、自給自足の生活をするのだそうだ。立場がずいぶん違うので、自らメーチーの世界に飛び込んで、そこからタイの仏教とジェンダー(性差)思想について考えてみたいのだという。

そんな彼女が無事帰国してこのほど大学で新入生に向けて自分の体験を発表するというのでのぞきに行ってきた。

彼女はチェンマイに着くとまず町の観光案内所へ出向き、メーチーに会える寺を尋ねた。Wという寺を教えられ、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗って行ったみた。門前で偶然会ったヒトに、手引きされるまま境内へ。高僧と面会する事が出来た。英語で「仏教を学びたい」と申し出た。真剣さが伝わったのか、その寺に住み込んで、メーチーになることを許されたという。期間は十日間。しかし、自由を満喫し、飽食の時代に生きてきた彼女にとって、この修行は思いのほかきつかったようだ。

毎日午前四時に起きて瞑想開始。六時に鐘が鳴り朝食を食べるために食堂へ。主食はおかゆで、おかずも出てくるが一品か二品ぐらい。食後は各自皿を洗い、境内の掃除をする。その後また瞑想。昼食は十時半。午後に食事をとることはできないから、その日の食事はこれだけ。一日二食だけの粗食に耐え、一日七時間から九時間の瞑想生活を繰り返したという。

「何度も仏像を倒してこの場から逃げ出してしまおうかと思った」と振り返る。

旅先から彼女は時々Eメールを送ってきた。「オレンジ色の袈裟着た若い坊さんに言い寄られたよ、ママ!」「気を付けなさいよ」「大丈夫!タイの僧には守るべき戒律が二二七あって、女の人に触ると戒律に反するから触れないんだ」。若い坊さんたちはインターネットのメールアドレスを持っており、学校に通う帰りに、インターネットカフェに立ち寄り、カタコトの英語で口説きのメールをしたため、出すのだという。これにはいささか驚いた。御法度の僧院の恋とインターネット、タイの仏教界もおちおちしてはいられない。


2000年4月23日(日)中日新聞掲載
「旅情報の玉手箱 インターネット 1」

最近ノートパソコンの「二代目」を買った。少し前から携帯電話とつなぐこともはじめたので、日本のどこにいてもインターネットにアクセスでき、仕事がこなせることになった。

ツアーを企画する場合、インターネットで国内・海外から情報収集している。

携帯電話によるアクセスを実現する前まで、旅先で旅館やホテルの部屋にチェックインすると、まず最初に机の下にもぐりこんだりベッドと壁の隙間をのぞいて、パソコンのモジユラーが電話線に接続できるかを確認していた。これが気が重かった。一部の新しいホテルをのぞき、日本の宿の通信環境はまだまだ遅れているからだ。

インターネットが普及する前に、地球ひとり旅したときは、旅の情報収集のために走り回った。一日にいくつかの政府観光局をはしごして、旅の資料をどっさりもらったり、自分のほしい情報にいきつくのに、手間暇をかなり要した。航空券を手に入れる場合も、同じデイスカウント航空券の値段が、どちらが安いか、いくつかの旅行会社に電話して調べたものだ。

が、今は違う。インターネットにアクセスし、まずネットメディア会社ヤフーの画面を呼び出し、「旅」にアクセスすると、国別の旅便利帳が展開する。ためしにインドをあたった。ガイドブックを買って手に入る程度の固定情報に加え、インドでのインターネット接続事情まで記載されていた。画面を読み、自分に必要なところだけ印刷した。次にリクルートがやっているサイトの「旅・レジャー」にアクセスし、同じくインドへのデイスカウント航空券情報をとってみた。旅で出入国したい都市ムンバイ、それにデリーを選ぶ。次に出発地と出発予定日を選び、出発時間やシートのクラスを指定する。そして検索ボタンを押すと、その日一四件のディスカウント航空券を扱う業者名と値段、航空券の条件などが出てきた。

七月に出発する往復の航空券は、六万一千円が一番安かった。主要航空会社のホームページにリンクしているので、寄港地、便名と時刻、場合によっては空席情報もとることができる。かつては航空会社
の予約課に電話をかけてひとつひとつ聞いていたことである。この他、レンタカーや保険、ユーレイルパスなどの旅のパーツ購入もオンラインでできる。ただしオンライン取り引きはクレジットカードの番号がもれる可能性があるので危ない。faxを併用することが望まれる。

日々のメールを送受信でき、旅情報の玉手箱のようなインターネットに地球のどこからでもアクセスでき、用が足りるとしたら、書店に旅行ガイドブックを買いに行く必要もない。航空券入手やホテル予約まで画面上ででき、支払いまですると、旅行会社の店舗が必要なくなるし、場合によって旅行会社そのものも必要とされなくなってしまうかもしれない。

しかしとりわけすごいのは、これらこだわりの旅が自宅にいて、一言もしゃべらないで三十分程度で手に入れられることである。身体が不自由な人にとって、実は一番の朗報なのかもしれない。


2000年5月7日(日)中日新聞掲載
「地球旅行革命 インターネット 2」

一週間後にベルギーへひとり旅することになった。海外へひとり旅するために、インターネットで情報をとる場合、覚悟を決めて、外国のサイトにアクセスする方が、より価値ある、新鮮な情報を見つけることができる。ガイドブックもロンリープラネットやフォダーズなどの有名なガイドブックの出版社のサイトで情報をとる方が、日本人向けに限定されない革新的な情報に行きつけておもしろい。英語が弱いという人は、一万円ぐらい出して翻訳ソフトをインストール(パソコンに取り込むこと)すると恐怖感が和らぐだろう。決して完訳は期待できないが、どのようなことが書かれているか、概略を気楽に読めるのはありがたい。

今回せっかくベルギーに行くのだから、障害者の泊まりやすいホテルも見てみたいと、ホテルワールドという英語のホームページにアクセスしてみた。ベルギーにある加盟ホテルを検索すると四六軒が画面にずらり並んだ。さらに障害者用の設備とペットが泊まれる宿にこだわって検索したら、なんとたった一軒に絞り込まれてしまった。そこで、そのホテルの情報をさらに得るため、そのホテル名のところをクリックしてみた。ホテルの名前、電話、FAXなどが書かれ、シングルルームは五O二二、O五ベルギーフランから、部屋数二七と書かれている。ホテルの設備は、駐車場、会議室、障害者用設備、エレベーターがある。そして、ゴルフ、乗馬、テニスができる。静かな環境で、ペットも泊まれるとある。場所はブリユッセル空港から一五キロ。行ってみようかナー。

さらに情報をとりたかったので、次の画面に進むと、予約するのに簡単な五段階という説明画面になった。一.着く日を決める、二.何日滞在するか選ぶ、三.自分の泊まりたい部屋のタイプを選ぶ、四.人数、名前とeメールアドレス、電話番号、五.クレジットカード番号を知らせる。

しかし、国内海外にかかわらず、この障害者用設備という記述がくせものである。なにもハード面は整っていないのに、障害者を受け入れてやるという発想のホテルから、障害者用の部屋を設置していながら、エレベーターに車いすごと入れなかったり、廊下の途中に段差があったり。企画したツアーでは、何度となく裏切られてきた。

画面のオンライン予約ボタンの下に、コンタクトする必要があれば、とホテル予約事務所のEメールアドレスが書いてあった。住所を見ると英国にあるホテル予約事務所らしい。さっそくこのホテルの障害者設備の詳細を知らせて!とメールを出してみた返事は届くだろうか?

インターネットを駆使するだけで旅できる時代環境が確かに整いつつある。今、国境や従来の流通システムには全く関係ないところで、地球を縦横無尽に旅情報が飛び交っている。これを、地球旅行革命と呼ぶのは冒険だろうか。


2000年5月21日(日)中日新聞掲載
「ベルギーの設備が素晴しいホテル」

ブリュッセルで一番バリアフリーが整っているというホテルに泊まった。市中心にあるラディソン・サス・ホテル(RADISSON SAS HOTEL)である。私は旅にはいつもメジャーを持参するので、例によってホテルの内部を測りまくった。

まず泊まった障害者ルームの入り口のドア幅は88センチで2センチの段差。中に入って風呂・トイレ入り口のドア幅は75センチ、段差なし。ドアからベッドまでの通路幅は101センチ。ベッドの高さは55センチ。ベッドのスプリングも固く、身体の不自由な人が自力で寝返りもしやすいだろう。クロゼットのえもんかけの高さは普通の高さだが、電気スイッチの位置は車いすの人でも届く高さに配慮されていた。

シャワーも固定ではなく取って浴びられるし、段差なく車いすで近づける。シャワーチェアもフロント横のコンシェルジュ(よろず案内係)に頼めば準備してくれるという。車いすに乗ったまま洗面できるように、洗面台下は空間になっていた。

同じタイプの障害者対応ルームが三室あった。特筆に値するのは、これら障害者ルームのドアが外開きであること。車いすの人がドアをあけてから、中の空間を最大限に使いやすいように配慮されていた。ちなみに一般の部屋の入り口幅は78センチでドアは内開きだ。

少し前、高知を旅したときの衝撃が思い出される。某国際ホテルの障害者ルーム入り口のドア幅はひろいものの、ドアが内開きで、部屋の中にはなぜか段差を解消するために上りのスロープが作られていた。このスロープが落とし穴だった。車いすの人がドアをあけて、部屋の中に入っても、上りのスロープをあがらなければならず、勢いを付けてスロープをあがればドアをしめられないし、ドアを閉めるためにスロープを降りれば、スロープを上るのに勢いがつかないから、部屋の真ん中までたどりつけない代物だったのだ。まさに見せかけのバリアフリーであった。

一方、SASホテルだが、部屋の外の廊下の幅は2メートル10センチ以上もあり、途中なにも障害物は置いてなかった。ホテル入り口には、回転ドアが中央にあるが、外部と内部に赤い車いすマークのボタンがあり、これを押すと回転ドアのスピードをゆるめることができた。また、向かって左には左右112センチで段差なしの車いすで入れるドアがあった。グランドフロワには段差なく行き着けるバー。総吹き抜けのパティオ風レストランには下りの段差が数段あったが、車いすの人が目に付くと、従業員がさっと近づいてサポートしていたし、二つの簡易スロープが準備され、いつでも出番を待っていた。

それだけではない。どうしても段差なくレストランにたどり着きたければ、従業員用のエレベーター(入り口幅110センチ)に乗り込み、キッチンを通って行けば、どの階からも完全にバリアフリーで行き着けるのだ。

高知とブリュツセルの宿の取り組む姿勢の違いを解消するには、やはりバリアフリー度の克明調査を公表していくしかないのかもしれない。


2000年6月4日(日)中日新聞掲載
「ベルギーの魅力 戦場と猫祭り」

三年に一度、五月の第二日曜日に開かれる猫祭りで知られるベルギーのイーペル。

この小さな町が第一次世界大戦の最前線になっていたなんて、日本人のどれくらいが知っているでしょうか。私も、猫祭りを見に行って、はじめて知ることになりました。

イーペルはフランスとの国境まで十数キロ、英国に面する海岸まで三五キロの距離の所にあり、ブリユッセルから鉄道で二時間の静かな田舎町です。駅に着いてタクシーを拾おうにも駅前に一台もなく、バスはその日は休みとのこと。「ホテルまでタクシーに乗りたい」と地元の人にいうと、「町を出て三ブロックだから歩け」と言われ、結局、四十分ぐらいかかってしまいました。猫祭りは観光客のためにではなく、町の人々の幸せを実感するために開いているのでした。

三時から始まった祭りは、個性的なネコに扮した人々の山車が次々にパレードし、どでかいネコのクイーンとキングが出てくるとフィナーレを迎えます。そのあとは、夕方七時から町のシンボルである鐘楼から、黒猫のぬいぐるみが三十ほど投げ落とされ、それを拾った人は幸せになるという、なんとも不思議なイベントで盛り上がりました。 中世のヨーロッパでは、黒猫は魔女が連れている不吉な動物とされ、この町では、鐘楼から本物の猫を投げ落してきたという暗い歴史があります

それなのになぜ、この町の人々は一転して猫を賞賛する祭りを催すのでしょうか。

町の中心にフランダース戦場博物館があって、翌日訪ねてみると、近隣の小学生や中学生のグループが、毒ガス被害の展示物の前で神妙にノートを取っている姿がとても印象的でした。

この美しい町は第一次大戦の激しい戦場となり、完全に破壊し尽くされ、五万四千人以上の兵士たちが近郊一帯に消えたといわれます。各国の戦士たちが埋葬されている墓地や戦場となった場所は二四カ所に点在します。一九一四年から一八年まで続いた戦争での各国の戦死者は市民を含めて五十万人に上るそうです。

博物のパンフレットの言葉はこう語りかけます
「あなた自身を、第一次大戦に従軍した兵士や、看護婦、この地域に住んでいた人々の立場に置いてください。戦争の犠牲について考えてみてください。狂気を止められなかった指導者、兵士、市民。あなたは破壊、恐怖、悲しみによって衝撃を与えられるでしょう。しかし、未来への希望、友好、再生の両方を、この町で感じることになります。」

鐘楼からぬいぐるみの黒猫を投げ、それを手に入れた人は幸せになれるのだ、という発想――それは大国の戦争に巻き込まれ、苦しめられた被害者としての自分たちの姿をなんの罪もない猫に重ね合わせ、一方で、猫をいためつけてきた加害者としての自戒をこめているのではないかと思いました。

猫祭りは、自分たちの意に反して、悲惨な戦場として多くの犠牲を余儀なくされた過去を持つイーペル市民の平和への切なる願いが込められていると言えるのです。


2000年6月18日(日)中日新聞掲載
「ベルギー新発見、おすすめひとり旅のデザイン」

ヨーロッパをいそがしく 旅する日本人にとって、ベルギーは通過することはあっても、なかなか滞在しにくい国だと思う。

私も、今まで80回近く地球を旅してきたが、ベルギーの滞在泊数はたった一泊だった。その自戒も兼ねて一週間旅したポイントとしては、ブリユツセルの中心広場グランパレス、前回紹介した猫祭りのイーペル、「フランダースの犬」のお話の舞台のアントワープ、ナポレオンが破れた戦いの舞台ワーテルローなど。数日間滞在する価値があると思った。

まず食べ物がおいしい。フランス料理が伝えたこだわりと、豊富な海からの贈り物、魚介が集まってくる。ベルギーのアントワープで念願のムール貝のワイン蒸しをお腹一杯たべた。「ムール貝はスカンジナビアから来るのが一番うまいが、今はオランダ産だけど」、とアントワープの観光局のスタッフにすすめられたレストラン、レオン(Le’on)で味わった。

レオンは創業1893年の老舗だが、ベルギー国内はもとより、パリ市内にもありチェーン展開している。ムール貝を注文すると、鍋いっぱい出てくる。これが一人分である。値段は595ベルギーフラン(1730円ぐらい)。ムール貝の食べ方は、殻をはさみにして、次のムール貝の中身をはさんで口に持っていくことを繰り返す。

ところで、ベルギーがビールの国であることは、日本人にはあまり知られていない。国内には540社もの醸造元があり、ビールの種類は400種類以上もあるという。ビール祭などの派手なイベントで目立つドイツは量で勝負しているが、ベルギーは静かに味わいで勝負している。

元はといえば、ベルギーのビールは、旅人をもてなすために、中世に修道院の僧たちが作ったことに始まるという。今も老舗の修道院ビールは健在で、特にトラピスト(Trappist)という総称ラベルを付けられるオルヴアル(0rval)、シント・シクトウス(Saint-Sixtus)、ウェストヴレターレン(Westveleteren)、ウェストマル(Westmalle)、シメイ(Chimay)、ロシュフォール(Rochefort)などにはなかなかお目にかかれないが、入る店でまずこれらの銘柄を指定して注文し、飲み比べてみたい。色と泡立ち、深い味わいなどビールファンにはこたえられないだろう。

最後に、ドイツの国境に近い温泉の発祥地スパという温泉町の一日温泉体験もおもしろい。ベルギー国内に流通しているガスなし、ガス入りのミネラルウオーターSPAは、この町産である。町の中心に源泉の建物があって、一日コースを体験することができる。

私のプログラムは、ランチをはさんで4コース。ナイアガラと呼ばれるジャグジーバス20分、銅の風呂20分、顔のマッサージ20分、毛布にくるまれ蓑虫状態でウォーターベッドに横たわるソフトパックで午後4時に終了。費用は7,000円ほどだった。